金山町横田にある要害山、只見町只見にある要害山と近くに2つの同名の山があり、いずれも戦国時代の山城の跡である。横田要害山は源頼朝の奥州合戦(1189年)の恩賞として家臣の山ノ内氏がこの地の所領を賜り中丸城を築いて、以後豊臣秀吉の奥州仕置で没収されるまで400年続いた続いた山城跡で、金山町の史跡にもなっている。
R252沿いの金山町横田集落が登山口となるが、国道沿いに「中丸城跡」の2つの案内板があり紛らわしい、今回同行のHさんは以前来ており、東側の林道横田線の起点脇から登って線路脇を歩いて登山道に入り帰りに西側の案内板の所に下山したとのことで、今回もそのようにしてみた。
国道より石の階段を登り線路を渡ると山ノ内氏の代々のお墓が祭られた所に出る。線路脇を只見方面へ100m位歩くと「中丸城跡」と少し朽ち果てた標柱のある入口にぶつかる。最初はスギ林の中の登りとなるが、夏の季節は踏跡が分かるが、下草が枯れてしまうとスギ林の中の登山道は不明瞭になってしまいそうである。その先はナラ林の登りとなり、登山道は明確になり、「二の丸跡」のこれまた朽ち果てた標柱があり、途中土塁の跡などがあり山城であったことが想像される。
歩き始めて1時間弱で頂上に到達する。頂上は平坦地の本丸跡で、中央に石の祠が鎮座しており、摩利支天が祭られ山ノ内氏の軍神として尊ばれたものとのことである。話はそれるが戦国時代に毎日の生活物資の運搬はどのようにしていたのだろう?特に「水」はどうしてたのだろうか?1時間弱で登って来たが、戦いの時に鎧、甲冑を付けての登り降りはさぞ大変だろうなどと思い帰路についた。帰りの登山口は西側の案内板のところに出たが、民家の庭先みたいな所で、一声かける必要があるかもしれない。 (S.O)
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